「人、めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」

 

 

自動車免許を取るために教習所に通い始めた。

 

「乗りなさいよ、家まで送るわ」と颯爽に車を走らせ、愛した男と共に夜の闇に消えたいと思っていたので免許を取ることにしたのである。

 

そして、今日から本格的な講義が開始された。どんなことを学ぶのか、不安と期待を抱えた私は入学式の前日の小学生のような気分だった。

 

おともだち、いっぱいできるかな。

おべんきょうに、ついていけるかな。

ちゃんとかれし、できるかな。かれしは、ほしい。なんならともだちより、かれしがほしい。

 

 

 そして、そんな私の期待とは裏腹に、波乱の自動車教習が幕を開けたのである。

 

 

 

授業が始まるチャイムが鳴り、それと共に講師が入ってきた。左手の薬指に指輪をはめた若手の講師(オトコ)である。彼は「授業を始めますね」と一言述べた後、アイスブレイクでもするつもりだったのだろうか、こう発した。

 

 

 

 

 

「そういえば最近、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人、めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」

 

 

 

 

 

 

 

 

声高に話す講師、表情を一切変えることなく話に集中する生徒たち。

「人がめっちゃくちゃ轢かれている」という残酷な事実に対して2トーンあげたその姿、まさにサイコパス

 

 

いや、もしかすると「人」と言う認識が、私がもつ「人」と違うのかもしれない。

比較的温厚な人間である私は意気揚々と「人、めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」と言えない。

 

 

もしかすると、彼と私の中で「人」という対象への認識に齟齬があるのではないだろうか。この講師が残酷非道な人間だと決めつけるのはまだ早いと思った。

 

 

そもそも彼が意味する「人」とはいったい何なのだろうか。私はこの講義が終わる前までにその答えを出したい。そうしなければ他の講義に集中できなくなる可能性がある。

 

 

「めっちゃくちゃ轢かれている」と明るく発された言葉、その主語にあたる「人」というものは何なのか。

 

 

・・・いや、待ってほしい。

 

そもそも何に「めっちゃくちゃ轢かれている」のか理解していない。イッツノットアンダースタンダボー。「自動車教習所にいる」という共通のコンテキストをもつことで勝手にそのオブジェクトを「自動車」と認識してしまっていたのではないか。

 

 

 

 

もし、轢くのが「自動車」でなかったとしたら・・・

 

私はこの講義という講師の独壇場 is 一方的コミュニケーションにおいて大きなミスを犯している。いったい何が、何が人を轢いたって言うんだ。何が人を轢いたらそんなお気楽に表現できてしまうんだ。

 

 

 

いるはずだ。轢かれてもその残酷な事実を「お気楽」ただその一言に昇華させてしまう存在が一人だけ、この世に存在するはずなんだ。くそ、その名が思い出せない。

 

とにかく、必ずいるはずなんだ。よく考えろ、講義の終了時間は刻々と迫っている。

 

 

 

・・・いや、待て。

 

もしかすると変換ミスだったのかもしれない。「轢かれている」それは「惹かれている」「引かれている」「弾かれている」のどれかに変換すべきだったのではないだろうか。話し言葉とはかくも難しく、自分と相手の認識をすりあわせながら、適切に予測・変換しなければいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、そんな思考を全て打ち消すかのように、突如、講師が言葉を発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人、つまり歩行者は、神です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほ、歩行者が神、ほこうしゃがかみ、ほこうしゃがかかかkみqhsぎゅくゎでぇwkfだってええええ、どっひゃああああああ

 

 

ここでいったい何の新興宗教が始まろうとしているのだろうか。

歩行者が神、神とは人間が中二病を煩った際に望む最終形態。夜神月に始まり、誰もが神になりたいと願うが叶わない禁断の果実、神。それが歩行という行為だけで叶ってしまうと言うのか。

 

 

 

NO DEATH NOTE NO GOD。

 

夜神月も驚愕の事実、「歩行すれば神になれる」。

 

NO WALKING NO GOD。

 

 

 

 

 

 

 

つまり、「人」は「歩行者」のことだったのだ。

 

 

 

 

「人、めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」、つまり「神、めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」と言い換えることができる。

 

なんたる事実。神が軽率に轢かれてしまうこの日本、ジパング、まさに荒野行動、修羅の国以外の何物でもない。

 

神である歩行者がめちゃくちゃ轢かれてしまう、そんな純然たる事実を悲観することもなく、高らかに声をあげ「めっちゃくちゃ轢かれてま〜す」と表現する講師、誰なんだ、お前はいったい誰なんだ、誰なんだよおおおおおおおぉおおって怖すぎじゃないですか?

 

 

彼は神をも凌駕する人間、いや人間ではない、人間の形をした「なにか」に違いない。

私たちはこの人間の形をした「なにか」に安全運転の仕方を教わっているのだ。それは果たして安全なのだろうか。答えを知る者は誰もいなかった。

 

 

 

そして彼はまた私たちに告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「歩行者を1としたら、ドライバーは4です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怖い、怖すぎる。私は恐れおののいて持っていたジェットストリーム(ボールペン)を床に落としてしまった。隣の男性に至っては天に祈るような気持ちで黙想を始めてしまった。何なんだ、何の数字なんだ、1と4は何を指し示しているんだ。

 

 

 

関連性を示すと下記のようになることが分かった。

 

 

歩行者=神=1

ドライバー=?=4

 

 

1<4

 

 

 

ドライバーが神の数字を超越した。この数字が何を示しているのか、私たちは知らない。あの日見た花の名前を私たちは知らないし、この数字が何を示すのかも私たちは知らないのだ。

 

世の中は未知に溢れており、ソクラテスがこの光景を見たらきっとこう言うだろう「それは無知の知である」、と。私たちはここで自分たちがいかに無知であるかをまざまざと見せつけられ、また一つ知見を得たのだった。

 

 

 

 

 

そして彼はもう一度、私たちに告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたたちは、かつて歩行者だった。」

 

 

 

 

「しかし、これから君たちは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドライバーになる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どっひゃあu4f\う3えぢ2おfhzn2うなっなんだってええええええへ右wh裏4tpc4っと、どっひゃああああああああああtn4cmpofいうxqg3いうcn3t

 

 

 

私はその言葉に、大ダメージをくらい、狂人のごとくジェットストリームを壁に叩きつけた。

 

 

 

 

つまり、今まで私たちは歩行者という名の「神」だったわけであるが、この教習を受け免許を取得したときにはもう、「神」ではなくなっているということだ。

 

 

じゃあいったい私たちは何になるのだろう。私たちの前に立つ得体の知れない、この男のようになってしまうというのか。「神」というアイデンティティが近い将来、崩壊することを呆気なく告げられた私たちは、床に膝をつき、涙を流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いったい「神」とは何なのだろう。

 

私たちは知らぬ間に「神」だった。日本人は無信仰だと言われてきたが、私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

私たち自身がそもそも「神」であったのだ、と。

 

 

 

 

小金井自動車学校

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